『 柳家小三治独演会 』2009.6.10
柳家一琴 「三人無筆」
柳家小三治 「百川」
柳家小三治 「野ざらし」
*
あっという間に完売だった柳家小三治独演会。
1枚だけなんとか買えたチケットを握りしめ(正しくはバッグに入れて)、
ひとりで道新ホールへ向かった。
ひとりで落語に行くのは初めてで、なにか面白いネタがあっても
あれ面白かったねえ、と言い合えないのは楽しみ半減だけどまあ、しかたない。
面白いネタ=落語というわけではなく、会場全体、近くの席の気になる人など、
そこかしこにちりばめられている、ひっかかるコネタのことなのだけど。
コネタ以前にこの会はよい会だった。
いつも気になる笑いすぎる客も、臭い客もまわりにいなかったから。
でもそんな中にも感じの悪い人というのはやはりいるもので。
席は「ぬ列」の真ん中だった。
右隣のおばさま2人は始まるまでずっとリウマチのことを話していた。
始まったら黙ってくれるかなと心配していたのだけど、大丈夫だった。
でもキャッキャとかなりの大音量で笑い、手を叩き、
「うるさくてごめんなさいね!」と笑顔を振りまかれた。
振りまかられたら返すしかない。
偽善者のわたしはもちろん笑顔をつくり(大丈夫ですよ)という表情をしてみたけど、
伝わっただろうか。
でも感じは悪くなく、小三治ファンなのだろうなあという印象。
左隣の女性は開演ギリギリにでかい紙袋を持参してきた。
すいません、すいませんと過剰なほどに謝りながら着席。
ふと見ると、バッグがヨーガンレールだった。
わたしのバッグもヨーガンレール。
隣同士でおそろいだよ…と思いつつ、女性の紙袋を見るとKOOSだった。
わたしもKOOS履きますよ…と微妙な気持ちに。
だってその女性はオシャレとはいえなかったから。あーなんだかなー。
それよりも気になるのは、ずっと口元にハンドタオルをあてながら、
笑うところで「ブフッ」とハンドタオルに笑いを吸い取らせていたところ。
なんだろうなあ、アレ。
でも感じは悪くなかった。
後ろの席には弁護士が座っていた。
女の子をはべらせて。
休憩中の会話は落語後に予約したレストラン?へ行くのか、
「落語聞いちゃったら和食食べたくなったな~。いまからキャンセルってできないかな~。」だの、
連れている女の子たちは「あと30分もあるのー?やだ、お腹キュルキュル鳴っちゃう~」だのと言っている。
内容うんぬんより声と話し方が無償に癇に障り、イライライライラ。
とにかく一番感じが悪かったのは後ろの席だった。
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柳家一琴は前座仕事をまっとうした。
落語途中で携帯が鳴り、あーあと思っていると、あっさり落語をやめて
「携帯お切り下さいね。このあと(小三治の出番のとき)はぜーーったい鳴らさないで下さいね。頼みますよ~」
「あと1回くらいなら目をつぶります。」と言った。
本当にもう1回誰か違う携帯が鳴り、小三治のときには一度も鳴らなかった。
「三人無筆」は読み書きのできない職人がひょんなことからお葬式で帳付(ちょうづけ・記帳をする係)役になってしまい、
結局来たひとに自ら名前を書いてもらうことにしてしまう…ドタバタ感のある話。
記帳しにきた人の中に、郡山剛蔵(小三治の本名)が出てきて、くすっとする。
*
柳家小三治は小三治ワールドだった。
飄々としているというのはこういうことかと思う。
それでいてキュートなのだからすごい。
枕でのゆっくりな間が、なんともおかしい。「間」だけでなんだかおかしくなってくすりとしてしまう。
どこに着地するのかな~と思って聴いていると、「なんだかおかしなところへ迷いこみましたね~」と言いつつ、
なんとなーく本筋へ戻っていく。
よせてはかえす感じで漂いつつ落語が始まったら、もう、もう、
「百川」は最高に面白かった。
料亭の百川で奉公をすることになった田舎出の百兵衛の訛りがなんともおかしい。
返事ひとつだけで、あんなにもおかしいものだろうか。
ほかの誰かの百川も聴いてみなければ。
御用聞きに行っただけの百兵衛と河岸の荒っぽい人たちの、かみあわなさがおかしくて、
でも大爆笑というのでもなくて、なんともいえないおかしさがずーっと続く感じだった。
休憩後の枕は「フランク永井」の話だった。
やっぱり小三治は歌がすきなのだった。
友達でもあったフランク永井の歌を2曲も歌った(全部じゃないけど)。
かろうじて、フランク永井のことがわかっていてよかった。
「野ざらし」は女好きの妄想話とでもいうのか、妄想がダダ漏れしているさまがおかしい。
落語にはこの手のおばかさんがよく出てくるけれど、
小三治のおばかさんっぷりは愛嬌があって、ほんとにしょうがないねえ~お前さんは、という気持ちになってくる。
それにしても身振り手振りは決して大きくないし、声色も変え過ぎてもいないのに、
何人もの登場人物が自然にそこに存在していた。
落語を聴いたときの違和感のひとつに「やり過ぎ感」があって、
もちろん落語家自身のキャラや話に合う合わないというのもあるだろうけど、
わざとらしいとどうしても興ざめしてしまう。
小三治の落語は自然で、自然ななかに登場人物たちがいて、だからいいのだった。
今度はキリリッとした強面の登場人物が出てくる話も聴きたいと思う。
また絶対小三治は行こう。