20100207

第7位:ハーミット氏の二重生活

はーちゃんが我が家にきて3周年を記念し
この3年間のはーちゃんにまつわる思い出を
カウントダウン形式で振り返ろうという企画です。


古来、文学は猫を愛してきた。
古くは夏目漱石から、近年では保坂和志に至るまで
多くの文学者たちが優れた猫文学を著してきた。

犬の屈託ない素直さは微笑ましくはあれ、
そこに文学の精神が宿る余地はない。
猫のもつ、
気ままなな自由、
気むづかしい屈折、
気どったふるまい、
気だかい誇り、
気だるい午後、
気まずい二人、
などなど、にゃごにゃご、
むだに複雑な猫気質なればこそ文学の触媒たることができた。

また、逆に言えば、
猫という存在を言い表すには文学が必要であった、ともいえる。
だが、言語表現も時代とともに発展し
我々の生きる現代においては猫を端的に表すための言葉が開発され、
「ツンデレ」(※)という一語によって
猫を言い表すことができるようになった。

特に意味のないことを三段論法で証明するならば、
1)吾輩は猫である。(A=B)
2)猫は「ツンデレ」である。(B=C)
3)吾輩は「ツンデレ」である。(A=C)
ということになる。
Q.E.D.

はーちゃんもまた、猫であり、「ツンデレ」である。
ただ、はーちゃんの場合は、割合の問題として
「ツンツンツンデレ」くらいである。

では、はーちゃんの「ツンデレ」エピソードを。

よっこの両親が我が家に泊ったときのこと。
人見知りのはーちゃんは、もちろん隠れて出てこない。
猫好きのお父さんは会いたがっていたけど
はーちゃんは顔ひとつ見せなかった。
が、
電気を消してみんなが寝床に入った夜更け、
何を思ったか、はーちゃんはお父さんの布団を訪ねていった。
そして、おなか以外はすべてなでられたという。

また別のとき、よっこのお母さんがうちに泊ったときも
明るいうちは姿を見せなかった。
で、
やはり、暗くなってからお母さんの布団を訪ねていった。
明るいときはツン、暗いときにはデレなのだ。
翌朝、洗面所にいるお母さんに、はーちゃんが「ニャア」と声をかけた。
お母さんが「なあに?」と答えると、ぴゅーと逃げていった。
よっことお母さんを取り違えていたようだ。
匂いか、オーラか、はーちゃんの感じ取った何かが似ていたのだろう。

私の友人が泊まりにきたときには、さらに劇的だった。
起きているうちは隠れたままというのは同じ。
暗くなると布団を訪ねていき、
さらに、
なんと、
布団に入ったというのだ。
理解しがたい。
まったく理解できない。

「ツンデレ」とはまた別に、
はーちゃんは文字どおりの「二面性」をもっている。
二つの面(ツラ)をもつ猫である。
あるときは、
可憐にして清楚、
聡明な目をした、
深窓の令嬢のような気品を漂わせる
美麗なる猫の顔を見せる。
またあるときは、
不平と不満を餡にして丸め込んだ大福餅に
恨みがましい陰気な目をつけたような
ぶさ猫の顔を見せる。
深窓の令嬢と、大福餅。
どっちのはーちゃんがかわいいかと家族会議の議題に上がったが
満場一致で大福餅が議決された。



(※)ツンデレ補論:猫化する現代的アンビバレンス

「ツンデレ」という現代用語の意味について、
萌えの心情の実感を伴った真の理解はできないにせよ
ある種のアンビバレンスを指し示すのであろうと
語感から推測することはできよう。

もう一歩踏み込んで言うならば
両立し得ないはずのイエスとノーが
気まぐれというゆらぎのなかで表裏一体の共存状態となり
「ツンデレ」というキメラとして動きだす。

これを背反する仮面が一個体に備わった状態と捉えるならば
ジキル博士とハイド氏の解離性同一性障害が思い起こされるが
ツンデレラの二面性は引き裂かれたペルソナではなく
あくまでもゆらぎのある二重性であることに留意したい。

「ヒツジの皮をかぶったオオカミ」という単純な二重性とはことなり、
ツンデレ現象においては連続的な相転移により
「オオカミの皮をかぶったヒツジ」との見分けがつかなくなっている。
「オオカミ」とも「ヒツジ」とも識別不能になった何者か、
あるいは、あえて混同された「オオカミ/ヒツジ」存在が
絶え間ない相転移に伴って発する潜熱が、萌えとして「発見」される。

しかし、このような「オオカミ/ヒツジ」モデルのように
ひとたび分節したのち改めて接続する経路を仮定することは
むしろ「ツンデレ」理解を疎外するのではないか。

ツンとデレの共時性分析には、「オオカミとヒツジ」モデルを捨て、
「ネコ」モデルを導入すべきであろうこと、これが本論の主題である。
ネコをかぶる、という。
しかし、いったい誰がネコをかぶったのか。
オオカミか、ヒツジか、それともヒトなのか。

ネコとは、そもそもがアンビバレントな存在者である。
ネコはアンビバレンスそのものというべき存在であり、
しっぽを立てて四つ足で歩き回る「ツンデレ」であるともいえよう。
ネコはツンをかぶったデレでもなく、デレをかぶったツンでもなく、
まさしく表裏一体の「ツンデレ」存在なのである

ネコをかぶるとは「ツンデレ」をかぶるということであり
二面性の仮面をさらにかぶる、ということになる。
二重の二重性などという複雑な構造を論じる用意はなく
この問題にはここでは立ち入らないこととしたい。

また、化けの皮がはがれることを、しっぽを出すという。
しかし、「ツンデレ」であるところのネコは、そもそも
しっぽを出しっぱなしであることを忘れてはいけない。
出しっぱなしのしっぽを見失い、
隠されてもいないしっぽを探し求めるような過ちを犯すならば、
我々の思想ひいては思想史の全体が猫又の手中に落ちることになろう。