はーちゃんが我が家にきて3周年を記念し
この3年間のはーちゃんにまつわる思い出を
カウントダウン形式で振り返ろうという企画です。
ピクニックという高度な遊びに対する漠とした憧れが
いつからか、そして、いまだに、もやもやとある。
遠足やハイキングではなく、海水浴やバーベキューでもなく、
ピクニックはあくまでもピクニックとして行われる。
ピクニックをその出自に基づき定義するならば
「戯れに屋外化された社交パーティ」となるだろう。
そして、その規定を厳密に適用するならば
私はピクニックに縁がないと認めざるを得ない。
漠とした憧れを断ち切る思いで認めるしかない。
私に社交性がないこと以前に、
私が社交界に属していないこと以前に、
日本にはそもそも社交界などないからだ。
しかし、ピクニック概念をそこまでラディカルに限定し
自分ばかりではなくすべての日本人を道連れにして
ピクニックからの疎外へと追い込むこともあるまい。
包容力と弾力性のある鷹揚な受容と運用により
異文化を消化・吸収・発展の挙げ句に
ほとんどまったく新しいものに作りかえてしまうのが
我ら日本人の古来からの伝統である。
古くは中国から伝わった漢字を崩して仮名文字を生み、
同じく中国発祥の喫茶文化を茶道にまで昇華させた。
あるいは、中国文化の受容の、より卑近な例を挙げるならば
拉麺がラーメンへと展開されていった歴史を紐解くべきか。
ラーメンのヴァリエーションは増え、細分化され、
日本国内の小地域にくまなくご当地ラーメンが生まれるに至り、
また別途、湯を注いで3分待つだけのカップ麺がマーケットを広げ、
宇宙にまで飛び立った。
日本人なくして宇宙ラーメンはなし。
いや、待て、ラーメンの話ではなかった。
ほんとうはさらに、仏教の宗派のことや、
テンプラ・カステラ・キリシタンのことや、
カレーひいてはカツカレーのことや、
スパゲッティナポリタンのことや、
さらには自動車産業や家電産業の栄枯盛衰にまで広がる問題圏であるが
これ以上は日本人論を展開している場合ではない。
本題はピクニックである。
もうちょっとぼんやりとしたイメージに基づき
ピクニックとは芝生に敷物を広げてコジャレた弁当を食べるもの
という程度の整理を、暫定的に採用したい。
サンドイッチかなんか食べて、ワインでも飲むのだろう。
しかし、私はやはり、昼間から酒を飲むことを好ましくは思えない。
カップ酒ではなく、ワインだったとしても、事情は変わらない。
正月の朝から酒を飲む風習さえ、どうかと思う。
どうかと思いながら正月は飲むが、飲まなくてもいい。
どうも話が進まない。
ピクニックという漠とした憧れの対象への
複雑な心理が主題への接近を禁じているようだ。
抽象的なアプローチでは話が猫まで届きそうもない。
具体的な事柄から語り始めるべきだったのだろう。
たとえば、その日の天気であるとか、そういう具体的なことから。
5月のある日、青い空、白い雲。
ピクニックにはうってつけのお天気、ピクニック日和。
水筒にコーヒーを入れ、敷物と本を用意した。
早く起きた休日、午前のうちから出かけ、
近所にある知事公館が一般に開放している広い庭へ行く。
陽射しに輝く青々とした芝生、
おだやかな風が爽やかに吹き抜けていく。
ふだんは家から出られない猫は
草の匂いに、
飛ぶ蝶の軌跡に、
空の広さに、
飛ぶ蝶の軌跡に、
空の広さに、
刺激に満ちた世界のすべてに、大興奮である。
喜んで駆け出そうとする猫を
あわてて追いかけていく妻の姿を
ほほえましく見送って、
ほほえましく見送って、
私はコーヒーを飲みながら
本のページをめくる。
本のページをめくる。
……という、簡易的ではあっても
小市民的に幸福なピクニックになるはずだった。
が、猫はピクニックを好まなかった。
猫が社交界に属していなかったとか、
十分なだけピクニックが日本の風土に適合されていないとか、
そういうことではなく、
野良あがりの猫は、たぶん、また捨てられると思ったのだ。
子猫時代、毎日がピクニックだった。
地獄のパーマネントピクニックがフラッシュバックした。
脳裏によみがえる恐怖の数々。
飢えや、寒さや、身を脅かす外的の脅威。
もう外の生活には戻りたくない。
そういうことだったのだろうと思う。
バッグから出ようともしない。
バッグから出すと、スカートにもぐりこんで身を隠していた。
ピクニックは失敗に終わった。
完全に、疑いの余地なく、失敗だった。
過ちであった。
家に帰ったら、急激なストレスのせいだろう、
猫はフケだらけになってしまった。
すまないことをした。
すまなかったよ、はーちゃん。