20100221

第3位:怪奇現象/点描表現/摩擦係数

はーちゃんが我が家にきて3周年を記念し
この3年間のはーちゃんにまつわる思い出を
カウントダウン形式で振り返ろうという企画です。


あの日の夕食は、なんだったっけ。

思い出せるわけもないので、思い出す努力もしないが、
生活のディテールはいともたやすく失われていく。
日記をつけることで解決するほど単純な問題ではない。
夕食の献立に限ったことを言っているのではない。
生活のディテールをくまなく記録することなど不可能だ。
生活のすべてを情報化することなどできない。
あの日、献立は思い出せないが、おそらく何かを食べたのだ。
それが生活の集積としての人生である。

ただ、なにもかもが忘れ去られたわけではなく、
具材としてはホタテ、それも、たぶん冷凍のベビーホタテだった。
わずかな手がかりではあるが、
ベビーホタテをどのように調理したのかと推理を進めることはできる。
たとえば、チンゲンサイとともにオイスターソースで炒めたかもしれない。
あるいは、単にバター焼きにしたかもしれない。
その他にはあまり思い浮かばないところをみると、
我々は失われた過去の献立をほぼ突き止めたかもしれない。
真相のすぐ近くまで接近している。
だが、そこが限界だ。
これ以上はわからない。
もしこれが検察の捜査案件だったならば、
嫌疑不十分のため不起訴とせざるを得ないだろう。
それでも、オイスターソースだったか、バターだったか、
いずれかであった可能性が濃厚であると情報リークぐらいはしたい。

あの日、布団に入ったのは、何時だったっけ。

これもまた失われた生活のディテールである。
思い出せるはずもない。
ただ、ほとんどルーティン化している日常生活のパターンから推測すれば
早くても22時すぎ、どんなに遅くとも25時くらいのことだろう。
着替えて、布団に入り、電灯を消した。
この順序は記憶ではないが、確信できる。
あとはアンコウが提灯をぶら下げているくらい深い眠りに
ずぶずぶと沈み込んでいくばかりだった。
が、眠りが訪れるまえに事件が起こった。
記憶が失われても再現できるほどありきたりな日常に
まえぶれもなく怪奇な現象が起きたのである。

それは、あの日、はじめて聞いた物音だった。

どこでなにが音を立てているのか、まったく見当がつかなかった。
この世のものとは思えないほど不気味な音が暗闇のなかに響いていた。
しかも怨念のように執拗に鳴り続くため「気のせい」と済ますこともできない。
擬音で表せば、ザリリイィ、ザザリイィ、ザァリリイィ、というような、
そして、絵にするならば、水木しげるの点描表現のような、
率直にいって妖怪じみた響きだった。
というか、もう、妖怪アカナメが来たとしか思えなかった。
しかし、鉄筋コンクリートのマンションの6階にも
妖怪は現れるものだろうか?
サンタさんは来るのだろうか?

で、まあ、
明かりをつけて台所に行くと
猫が飛び出してきて
猫の去ったあとを見ると
夕食に食べたベビーホタテの入っていた
発泡スチロールトレイが落ちていた。
蛇足ではあろうが、
このたびの妖怪出没事件について科学的に説明しよう。
これだけひっぱって、これだけの話なものだから、
くどくど説明でもしなければ収まりがつかない。

私たち人間の舌にも糸状乳頭という小さく固い無数の突起があるが、
これがネコ科では特に発達しており、ヤスリのようにザリザリしている。
肉食獣であるネコ科動物たちは、獲物を狩り、牙を立て、
最後にはザリザリした舌で、骨から肉をこそぎとって食べるのだ。

一方、発泡スチロールはポリスチレンを発泡させた合成樹脂である。
泡のように、固体と気体が入り混じっているために
軽く、衝撃に強く、保温性に優れており、
この性質を活かして緩衝材や断熱材として利用される。
気泡が含まれているため滑らかではなく、
製造方法にもよるが粒を寄せ集めたようなザラザラした荒い手触りがある。

ザリザリした猫の舌でザラザラした発泡スチロールをこすると、
摩擦係数が大きいため、思いのほか大きな音を発するだろう。
この音は擬音で表せばザリリイィというような、
聞く人が聞けば妖怪じみた印象を受けかねない音色になることもある。

幽霊の正体見たり枯れ尾花、
と昔の人はいった。
わかってみれば、どうということもない。
だが、一瞬とはいえ、妖怪の存在をリアルに感じたのだ。 
生活のディテールは失われ続ける一方、
科学的な事実とは乖離した内的体験のリアリティは
大脳皮質に深く刻み付けられる。
それが主観的な経験としての人生である。

その後も、
鶏肉を食べた日の夜にバリバリと骨を噛み砕くような音が響いたり、
鍋をした日の翌朝、床にダシにした昆布が鍋から逃げ出したり、
皿に乗せていたアンパンが5メートル以上さきの床まで移動したり、
我が家では怪奇現象が立て続いている。
我が家の新婚旅行の行き先が
ハワイでもヨーロッパでもオーストラリアでもなく
「鳥取・島根・山口をめぐる山陰旅行」という
ハネムーンというよりもフルムーンのようなチョイスであり、
その最初の目的地が境港市「水木しげる記念館」だったことに
関係するようにも思うが、科学的には証明しがたい。