20080525

落語一年生日記(その6)

「 立川志の輔独演会 」

  立川志の八    「牛ほめ
  三遊亭全楽    「ちりとてちん
  立川志の輔    「親の顔」
  (仲入)
  ダメじゃん小出   なんかゆるい芸、ジャグリング?
  立川志の輔    「五貫裁き




志の輔さん、新作と古典をひとつずつ。
多いに笑って、聞き入った。
聞いている最中には、噺に引き込まれて、何も考えてはいないのだけど
あとになって、じわじわと脳に効いてくる。
志の輔さんの落語に何が仕掛けられていたのか真剣に考えていくと
これはなかなか難解なことになりかねない。
ちょっと面倒な話を書くけど、もちろん家に帰ってきてから考えたことで、
聞いている間はただただ聞き入っていた。



「親の顔」。
学校のテストで全問不正解だった子の回答をめぐって
思考フレームのずれで笑わせる噺。
子は、回答するにあたって考えた理屈を述べる。
その父は、子どもの理屈におおむね賛同しながら、
その回答が不正解とされた理屈を述べる。
子の思考も父の思考も、学力テストのフレームからはずれているので、
担任教師は面食らう。

たとえば、「81個のみかんを3人で等しく分けなさい」と問われ、
子は「ジューサーでジュースにして分ける」と言う。
だって、みかんには甘いの酸っぱいのがあるのだから、
等しく分けるにはジュースにするしかない、と。
父は「そのとおりだけど、考えが足りない」と言う。
なぜなら、81個のみかんは1度にジューサーに入らないから。

テストの回答として、正解は「27個ずつ分ける」しか、ありえない。
問題を数量に限定するフレームが、暗黙の前提として与えられている。
暗黙の前提を理解できないものは「空気読めない」と誹られ、
社会の片隅に排除される。
だから、学校は計算という技術を教えるとともに、
社会のフレームを植え付けていく。
「親の顔」の子は、数量のフレームが埋め込まれた問いに対して
質をもって答え、不正解のバツをちょうだいする。
質とは、すなわち、甘いか酸っぱいか。
いくらたくさんみかんがあっても、酸っぱいみかんばかりならば
嬉しくはない。
学校では、嬉しいかどうかは問題にされないので、バツになる。

子は、ジューサーにより質の均一化を図るが、
父は子よりも世の中を知っている。
みかんはジューサーに入り切らないのである。
質ってのは、そんな簡単に均一化できるものじゃない。



「五貫裁き」。
堅気になって八百屋を始めようと一念発起した八五郎と、
大きな質屋を経営する徳力屋の諍いを、大岡越前が裁いた。
裁きは、貧しい八五郎に五貫(五千文)という多額の罰金を申し付けるもの。
ただし、八五郎が一文ずつ徳力屋に渡し、徳力屋が奉行所へ届けるルール。
八五郎、昼夜を問わずに一文を届けにいく。
夜も寝られなくなった徳力屋、音を上げて示談を申し出る。
八五郎は示談金で八百屋を構えることができた。
八五郎に店を構えさせたことで、徳力屋は偉いと褒められるようになった。
褒められて気分をよくした徳力屋、それからは善行を積むようになった。

勧善懲悪のストーリーのようでいて、そうではない。
ケチだった徳力屋、施しをしすぎて店は潰れた。
八五郎の店も繁盛したが、持ち慣れない金を持って、身を滅ぼした。
関係者みんな死んで、この話を知っている者はいなくなった。
と終わる。
なんなんだ、これは。

まずは大岡越前が、罰金「五貫(五千文)」を「一文を五千回」と
読み替えた。
算数としては、イコールで結ばれるはずのことだが、
実際には算数どおりにいかない。
このあたり、「親の顔」に通ずる。

資本の論理と義理人情の倫理がかちあって、義理人情が勝つ。
宵越しの銭は持たないという江戸っ子の「粋」メンタリティとも見えるし、
もともと宵越しするほど金のない町人の、資本家への羨望とも見える。

ともあれ、どのみち、みんな死んだ。
善でも悪でも、得でも損でも、すべて忘れられた。
談志師匠によく似た、しわがれた声で志の輔さんが語る
談志式「五貫裁き」のエンディング。

価値観を相対化して引っ掻きまわした挙げ句に、諸行無常の彼方へ突き放す。
聞き入っているうちに、こんな、からっぽな地平まで連れ去られるのだが、
このからっぽさは、絶望感には染まらず、なぜか爽快感をもたらす。
さばさばした虚無感が、なぜか、生きる希望に思えた。